ごあいさつ
日頃は格別の御愛顧を賜り誠にありがたく厚くお礼申し上げます。
昭和30年より小倉の地で『中国料理耕治』として創業して以来、お客様のおかげをもちまして、今日まで商いを続けております。「耕治」の看板商品として愛されてきた”醤油ラーメン”を是非ご賞味下さい。今後とも御贔屓のほどよろしくお願い申し上げます。
店 主 平野桂之介
日本で最も歴史のある蕎麦屋、『おく山萬盛庵』を代々継承してきた直系。
『中国料理耕治』の歴史は、東京・浅草の『おく山萬盛庵』という江戸中期に創業した、日本で最も歴史のある蕎麦屋に端を発します。<門に(※)宝井其角の筆による萬盛庵の扁額を掲げておりました。(東京出版社『蕎麦辞典』より引用)。加えて同書には<女優・望月優子は「私たちは川端(康成)先生に連れられて、お座敷のある坐って食べられる、その『萬盛庵』で年越し蕎麦というものを食べる風習を知った」と述懐した>とあるように、その歴史の深さは年越し蕎麦以外にも、茶蕎麦や海苔を乗せた蕎麦なども発祥はこの店であると伝えられているほどです。戦火により現存しない店ですが、全国各地に『萬盛庵』を屋号に掲げる蕎麦屋が多いのは、この『おく山萬盛庵』に対する憧れや敬意の念からと言われています。当時の勢いの良さは槙原路郎著《蕎麦辞典》に「大正末期まで鳴らした浅草(観音堂裏)の萬盛庵は東京名物の一つであった。」と記されております。『お酉さま』〈江戸の昔より1年の無事に感謝し、来る年の幸を願う行事〉の時期は際立って忙しく、2~3日前から何百という天婦羅を仕込むほどで、後に父が祖母に萬盛庵はどんな店だったかと訊くと「まァ、お蕎麦屋では日本一だろ。」と、こともなげに答えたそうです。また、手入れの行き届いた庭も見事で、絶えず2~3人の脚絆姿の庭師がいて、『三社祭』の頃になると離れのひとつを青竹で囲み、店に伝わる神輿や四神剣が飾られました。「其処に町内の頭連が集まって祭りの相談、話が熱してくると頭の中には、つくばいの処で諸肌ぬいで、倶利伽藍もんもんの躰を拭く。とにかく威勢のいい風景だったよ…。」と、祖母は語ったと言います。『中国料理耕治』の創始者、父・平野耕治は『おく山萬盛庵』の末っ子として生まれ「鳥町食道街」に店を創業しました。当時の屋号だった『東京風支那そば 耕治』には、この小倉の地で醤油ラーメンを根付かせていこうとする『萬盛庵』への強い思いが込められておりました
試行錯誤の末に独自の製法を編み出し、完成した『耕治』の醤油ラーメン。
大陸から切り離された沖縄にヤンバルクイナが生きのびたように、東京から遠く離れた小倉に東京ラーメンが残った。ともに奇跡に近い。中華料理店「耕治」の常連、なかでも東からの転勤族はここで東京の味を懐かしんでいる。「種子島」の鉄砲のような真っ黒なしょうゆラーメンを持って駅前の闇(やみ)市にやって来た《宣教師》は、浅草生まれの平野耕治という青年だった。山本周五郎の小説によく出て来る「浅草の観音様」裏道のそば屋の末っ子。東京大空襲で一家は離散し、平野少年は焼け跡で戦災孤児みたいな生活を送る。兄嫁の実家がある小倉へ来たのは、戦争の影がやっと消え、太陽族がはやったころだった。ウドンから始まって天丼、カツ丼、チャーハンからいなりずしに至るまで、しょうゆの「うずっ黒さ」を拒絶する「白信仰」の地。そこに、しょうゆラーメンを布教する苦労は筆舌に尽くし難かったという。「ふざけるな」「こりゃウドンのつゆだ」「辛くて食えん」と、席をける玄海育ちに、浅草育ちはくちびるをかんだ。孤立無援の《宣教師》を励ましたのは、占領軍のGIならぬ東京から派兵された企業戦士だった。とくに新聞記者たちは紙面で賛美歌を合唱した。以来、30年。最近、わざわざ訪れたキッコーマンの社長は「長い間、よくぞこれだけしょうゆを使ってくれました」と礼を述べたという。平野さんは、53歳になった。永六輔さん(52)の話 小倉で浅草を相続している。人も味も。不思議だなぁ。
「ちかごろ小倉駅前にて」1986(昭和61)年6月2日 朝日新聞より抜粋
過剰な飾り立てをしない『耕治』スタイル。全ては舌の上での勝負のために。
ラーメンとシュウマイの二枚看板を軸に営業を展開し、次第にメニューの種類も内容も拡大してきました。今や高級中国料理の代表として認知され、「小倉に『耕治』あり」との評価まで頂けるほどに。それも永く愛し続けてくれるお客様あってと私たちは常に思っています。現在、店の経営に携わる私、平野桂之介と総料理長、従業員一同「初代の味や思いを遵守する」ことに努めております。『耕治』の料理の大きな特徴としては、華美な飾り付けを一切行わない点が挙げられます。通常、高級中国料理と言えば、壮麗で華やかな飾り付けを連想される方が多いと思いますが、『耕治』のそれは至ってシンプル。江戸っ子気質そのままに「飾りは所詮、飾り。喰えねぇだろう?」が父の口癖でした。私もその思いを守り、味だけで勝負というシビアな領域で挑戦し続けてきました。こうした積み重ねが、質実に重きを置いた、過剰な飾り立てをしない「耕治スタイル」を確立したのだと思います。スタッフの接客や店の雰囲気なども、全ては「お客様の舌の上で楽しんで頂く」ためにあります。創始者の思いを守ること、そして広めること…、そのことはまさに「温故知新」の素晴らしさを料理を通して表現すること。それが『耕治』らしい料理の在り方であると私たちは考えます。

(※)宝井其角
「年の瀬や 水の流れと人の身は 明日待たるる その宝船」
江戸名所図会・両国橋十二月歌舞伎恒例の演目『忠臣蔵』の芝居の中で、討入りの前夜に詠まれる句。煤払いの笹売りに変装する大高源吾が、俳諧の師・宝井其角に雪の両国橋で出会い「年の瀬や…」と詠みかけられるや「明日…」と対句して去る名場面。この大高源吾の付句によって宝井其角は吉良邸討ち入りを知ることになります。
《宝井其角:医師の息子で松尾芭蕉の弟子となり、彼の十大弟子(蕉門の十哲)の筆頭とされました。》
全盛期には2〜3日前から何百という天婦羅を仕込んでも瞬く間に売り切れたという「萬盛庵」を切り盛りしていた、若き日の萬盛庵 女将「平野とめ」

松本清張先生直筆の「達磨画」。肌の色はなんと醤油で着色されたもの。

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耕治では《季刊「提灯記事」》という小さな雑誌を発行しておりました。お客様にもっと耕治を知っていただきたいという思いで初代が作った『提灯記事』。この雑誌を通して耕治の食に対する考え方やこだわり、初代の文化人との交流。どなたからも親しみのあるお店として可愛がっていただき、又、宣伝にも一役買っておりました。
ブログ「耕治日記」でも日々の出来事を交えながら、耕治創業者・平野耕治の綴った《季刊「提灯記事」》の創刊から34号までをご紹介していきたいと思います。 
創業当時(昭和29年)の父・平野耕治と母




